震災ボランティアに初めて参加した。
感想を一言で言えば、
「果てしない道のりだな」
という事に尽きる。
何も、あきらめや絶望から言っているわけではない。
むしろ人生を楽しむことに似ているような気がした。
「楽しむ」と言うと語弊があるかもしれない。
けれど、地震・津波・放射能という、戦争並みの苦難を生き抜いて2年。
南三陸町の漁師さん・家族の皆さんの逞しさや、心の広さには、つくづく圧倒された。
ボランティアセンターの猪俣さんは、
「震災復興には30年以上掛かります」
と言った。
上山八幡宮の工藤さんは、
「亡くなった人は、皆さんの心の中で生き続けます」
と言っていた。
漁師さん達は、
「来てくれるだけで嬉しいんです」
「ボランティアの皆さんには本当に感謝しています」
と笑って言った。
不幸の押し売りの段階はとっくに終わった。
これからは、復興の過程を楽しむべき時期ではなかろうか?
それはさておき、
・何でまたボランティアに行こうと思ったのか?
・そしてなぜ南三陸町なのか?
について自問自答してみた。
突き詰めると、
「国の借金」=「ボランティアに行った原因」
という結論に至った。
このままだと話が飛躍しすぎ、乱暴すぎなので、補足説明にトライ。
中学校の時、沢田というやる気の全く感じられない社会科の教師から、
「お前ら、知ってっか。日本は自転車操業国家なんだぞ。700兆円くらい借金あんだから」
みたいな話を聞いた。
その時、
「日本政府ってバカなのかもしれない」
と初めて思った。
その後、大学生になって
「『銀と金』の森田みたいに、オレは20歳そこらで1億手に入れてやる!そうすれば、年金になんか頼らずに生きていけるぜ!」
などと妄想してみたものの、大学を卒業しただけで一生安泰な時代はとっくに終わっていた。
ていうか、そもそも新卒で年収1億なんてあるわけない。
「これはどうも、一流企業で出世して、金持ちになるという道は無理そうだ。」
と諦め、昼の仕事はほどほどに、副業収入を徐々に増やす道にシフトしていった。
物価の安い東南アジアや、日本の田舎なら、副業の収入でも充分生活していけそうだ。
花粉とか、暑すぎる夏とか、嫌な季節だけ東京から避難する生活も面白いな、と妄想していた矢先、
東日本大震災が起きた。
原発事故へのマズすぎる対応などを見るにつれ、
「このバカ政府に頼りきっているだけでは確実に殺されてしまうわ。」
という嫌悪感が深まってきた。
とはいえ、まだ副業収入が目標額に追いついていない。
とりあえず下見のため、2012年のGW、マレーシアに10日ほど行ってみた。
気候や物価の安さは申し分ない。
が、観光って数日で飽きる。
海外や遠隔地でもできる暇つぶしがないか、と探していたところ、
震災関連の情報サイトを運営している社団法人のボランティア募集のページを見つけた。
折しも、英語の勉強の一環で、マレーシア人の友だちと話していた時に、
「ワタシ、去年ボランティアで東北いったYO」
という話を聞いていた。
なんと!
俺、寄付しかしてねえ。
日本人として恥ずかしすぎる!
そんな経緯で、在宅社会人ボランティアとして社団法人に登録。
社団法人の仲間達は、ほとんどが現地ボランティア経験者。
ここでも劣等感を感じる。
サーバ回りだけでなく、なぜかイベント(セミナー)の企画もやらせてもらえることになった。
イベントに呼んでみたい会社が福島(いわき市)と宮城(石巻市)にあったので、ご挨拶で東北を訪問したのが、2013年1月下旬。
何となく地名を聞いたことのあった「南三陸」に寄った。
多分、防災対策庁舎の職員・遠藤さんの話をどっかで見たのだろう。
雪と風の寒さ。
基礎だけ残った町。
ガレキ。
破壊された港。
高台の小学校から見下ろした町の全景。
忘れられない景色がたくさん。
東京に帰ってきてから数週間。
「今年の3・11は、現地で黙祷したい。」
という気持ちが強くなり、今回のツアーに申し込んだ。
そんなわけで、ワタクシにとっては、
「国の借金」=「ボランティアに行った原因」
なのです。
沢田せんせに感謝しなきゃだな。